2011.05.28 10:35
昨日私は石巻市の和久魚問屋へ行って来た。
話は先々週ににさかのぼるが、和久魚問屋の阿部社長からの電話が始まりである。
『どうやら、水と電気が早く復旧するようだ!』
私が行った3月18日にはとてもそのような状況が想像もできなかった。
先週になりまた一本の電話が入った。
『水の引き込みの話をしに市に行って来た。』
予想以上の速さである。
ようやく復旧の目途が見えたため、私は協力会社を連れて工事前調査へ向かうことにした。
以前飛んでいた飛行機も仙台空港の災害のため仙台‐福岡間は飛んでいない。
よって我々は東京経由で東北新幹線を乗り継ぎ仙台へ入り、レンタカーで石巻市まで向かうことにした。
我々が仙台駅へ到着すると先ず驚いたのがその人の多さである。
震災の影は全く見ることができないが地方からやって来たスーツ姿の人々である。
手には大きめのバックや手土産を持っている。
大半の人々は復興作業のため仙台へ来ているのだろう。
我々はそれを横目にレンタカーで石巻市へ向かった。
石巻港ICを降り数キロ走ると、全く変わった景色となって来た。
田んぼや家屋へ乗り上げた漁船。
道路脇の乾燥した泥後・・・
港へ近づくにつれ異臭が漂い始める。
火災した日本製紙の工場やフィッシュミール工場・・・
以前は走れる道路が制限されていたため通れなかったところを通ることが出来るようになったため、改めて石巻市の全貌を見ることが出来た。
そこは爆弾を投下された後のような荒野である。
海岸淵や埋立地は崩れた建物のガラで覆い尽くされている。
自衛隊の復興車両がいく連にもつらなり列をなしている。みな撤去ガラを運んでいるのだ。
いまだ信号が付かない港町は多くの警察の方々が交通整理を行っていた。
我々は石巻港を見てみることにした。


魚市場は以前より整理されている。倒壊した荷捌き場の鉄骨屋屋根は全て撤去されていた。
丁度我々が付いたころ、大型のサルベージ船が港へ打ち上げられていた船舶を撤去していた。
我々は和久魚問屋へ向かった。
阿部社長や社員の方々が我々を笑顔で迎え入れてくれた。
みな元気である。


荒果てていたいた工場も今は整然としていて皆で復興に向けて片づけをしていた。
片付けが進むにつれて建物の具合が見えてくる。
思った以上より倒壊が激しい。
しかし、周りの工場は全て建物が無くなっていたが、和久さんは残っているのだ。

貯氷庫は完全に浮いてしまっていた。
天井にぶら下がった状態であった。
歳輪になことに貯氷庫機械は損傷していない。

冷蔵倉庫は押し寄せた津波と中の発泡材の浮力で完全に押し上げられていた。
その水圧と浮力の破壊力を知ることとなった。
天井裏に上がると吊り天井が完全に押し上げられていた。

幸いなことに昔の建物の構造はよくできている。
普通だったら屋根が完全に落ちていただろうと推察されるが、加わった力が上手く逃げていてくれたおかげで残っている。
若干の保温材が割れているが補修は可能である。
冷媒配管は全く倒壊していなかった。
しかし冷凍機は津波に飲まれてしまっている。

カバーを開けると泥だらけであった。
電子部品は全て駄目である。
こうなると昔の機械式が良い。
とはいえ、なんとか最小限の復旧作業が望めそうである。
なにより、和久さんは阿部社長以下社員の方々がイキイキしている。
「完全なる復興をとげこれからの水産業界を引っ張っていくことは間違いない!」 と確信した。
我々も微力ながらそのお手伝いをしていこうと社員や協力会社と誓った2日間であった。